2012年4月29日日曜日

イノセンス創作ノート

イノセンス創作ノート 人形・建築・身体の旅+対談  押井守
2004年3月刊 341p


抜粋



人形の旅 

伊豆高原の人形美術館群
モナコの自動人形博物館
オートマタ
ビスクドール
ハンス・ベルメール 「ベルメールの人形」はNY写真美術館蔵
ベルリン・ボーデ博物館 ベルメールが霊感を得た人形
身体の世界展 プラスティネイション
ラ・スペコラ いくつかの死体から型をとった蝋人形

イノセンスは身体論映画である。キャラクターはそれぞれ異なる身体を持っている。



建築の旅

記号的だったアニメの映像表現を乗り越えるには、情報量においてキャラクターに圧倒的に勝る背景美術を描くこと
既にある建築様式を使う事は特異な自然環境をゼロから構築するよりも費用対効果に優れている。建築はそれ自体が物語性を持っているため、イメージを作りやすい。
二次的現実は現実の情報量には勝らないため、お金と時間を費やしてでも自ら足を運ぶべき。現実に根拠をもたぬ妄想には説得力がない。
演出は経験則のみで作れない。原則に基づき局面において個別に当たるもの。
平たくいうと演出は意図的に凸凹を生みだして観客の情緒を誘導するもの。
近景・中景・遠景で分けて演出する。
・近景はキャラクターの領域、表面上の物語進行。
・中景は世界観実現。演出家の目的意識が支配的な場。最も情報量が集中し、真の物語が進行する。最も確信的な事実が語られる場合、近景(キャラクター)は不在となる。多くの場合、建築の内部空間がこれに充当。
・遠景は監督の秘められた物語が展開される領域。最も抽象度が高く、理解し難い、無意識の領域。性質上、ほとんどの場合空白として提示される。

これらはアニメの物理的構造であり、人間の意識構造にも照応している。
物語・世界観・キャラクターの3要素がこれらに呼応し、映画が展開する。
→他分野への応用は別として、近景・中景・遠景に分ける考え方は面白い。



身体の旅

デジタル技術により実写は、役者や撮影場所などの制約から解放され、アニメ的表現を獲得する。
究極的に求められるのは「実在する者に等しい情報量を持ちつつ、映画の中以外に根拠を持たない非在の登場人物
実在する役者はそもそも非現実を主題とする映画にとっては存在自体が邪魔である。実在する顔は直ちに国や時代を連想させるものであり、外面にも内面にも余計な情報が多すぎる。
その短所は衣装を纏うことで繕われてきたが、最も重要な顔を甲冑で覆うことでノイズを消し去る事ができる。(極論だが、甲冑→デジタル処理とすれば、今後の映画で有り得そうである。)

個体が作り上げたものもまた、その個体同様に遺伝子の表現形であるならば、ビーバーの作ったダムや蜘蛛の巣のように、社会組織や文化は人間にとって膨大な記憶システムに他ならないし、都市は巨大な外部記憶装置である。身体を失った現代人は都市という身体を共有することで自己を同定している。
人形を作るという行為は、人間が言葉によって自らの身体をも対象化し、外部化してきたことの象徴的実現。



対談

×養老孟司

共通の理解というものが社会的にあっても、個人の現実は違う。社会とは共同の現実という幻想を作る装置。
元々個人の現実は違うから、唯一客観的な現実を知る神という視点が出てくる。それを追いかけて共同の答えを探す科学、社会の真実を伝えるという報道という形が出来る。ひとつの現実を追うことで、日本は多神教から一神教の国になりつつある。

情報は固定されたもの。生物は動的なもの。情報中心の社会では人間自体も安定した固いものだと思いがちだが、本来、今日と明日で言う事が変わるのが人間。

実写の中で、これは嘘ではなく本物だ、ということを強く主張するものもあるが、映画はそのもの自体が嘘。役者は自然な演技をしても嘘。本当らしい顔をして嘘をつかれると「嘘つき」と感じるが、初めから嘘を嘘として扱っていれば、その点については本物(潔白)
絶えず社会化された自分を演じなければならない人間にとって、「実は根拠のない本当(本物)」の中よりも「根拠がないものを根拠がないと言い切った世界」の方がリラックスできるから、嘘を求める。
人それぞれものの見方が違い、記憶も都合よく変化していくから、やはり現実というのは虚構。


×四谷シモン

よく出来た人形は、まるで死体のように見える。
今を生きる人たちは「パートタイムの身体」、動物は「フルタイムの身体」


×鈴木敏夫

キャラクターの喜怒哀楽を通して人類や歴史を描くという映画の構造に一種の危うさを感じる。
押井守の映画は登場人物まで観念的で、情緒(喜怒哀楽)を廃している。
「ナウシカ」は自然に対する単純明快な論理だが、「もののけ」はそれだけではもう整理できないという監督の悩みを訴えた映画。その分宮崎駿だけが持っているある種の爽快感がない。

最近の若いアニメーターは身体を失った世代。宮崎駿のように生きた身体の感覚がないから活き活きとした感覚のアニメーションが描けない。情報化の普及で感覚の延長線上にあるものは膨大に広がっているが、自分の身体を意識・実感する瞬間が減っている。首から上だけで生きている。
若い監督の日本映画からは食事のシーンが消えている。人間らしい行為が消え、どういう生活をするどういう人間なのかが分からない。つまり身体が消えているということ。
生活感を廃したキャラクターを好んで描いている。そういう作品と風潮の上に育っているから、生活感自体を描けない。
イノセンスは、言葉で語られる前に存在する身体を持つ犬(動物)と、観念として人間が作りだした身体の象徴である人形によって、人間が身体を獲得しているという映画。ただ、犬はただの代替物ではなく、その背後にある膨大な無意識の世界にもまた、(今後の人間に繋がる)可能性を感じる。
「イノセンス(無垢)、それはいのち」というタイトルとコピーが主題に繋がっている。
全部わかっちゃう映画というのはつまらない。自分の中で考える事によって面白くなる映画もある。わからないものはわからないまま、自分の中で反芻すればいい



感想

非常に興味深い本だった。読み始めは、なんか独善的で偉そうな人だなという印象だったが、
自分と少し距離を置いて読む事で、一人の他人の観念として受け入れることが出来た。
正しいかどうかは別として、面白い事を言っていると思う。
やたらと解り辛いのは、反論へ備えた防御のように見えて、どうも捻くれながら今まで来たのかなぁと人柄を想像してしまうが、閉じ籠っているようで外を見る目は鋭いし、中で熟成されてきた感覚や考え方は刺激的だった。
好きか嫌いかは別として、この人自身は面白い。
言っている事はまだ感覚として理解しきれない部分が多いので、時間が経ってからまた、映画と共に読み返したいと思う。

余談だが、「ビューティフルピープル・パーフェクトワールド」という漫画を1話だけ読んだ。顔や身体の整形技術が安価になり、ほとんどの人々が見た目をいじっているという未来の世界のお話だ。
押井守風に考えるなら、整形をするということは身体の一部を人形に置き換える行為になるのだろうか。それは人形への憧れにも、失った身体への回帰にも繋がらないように思う。身体の価値はより下がり、結果的に現在の「顔面文化」すら崩れ、見た目に何の意味もなくなる。攻殻機動隊の中で、身体のパーツのほとんどが作り物のバトーや、ネットと融合し身体すら捨てた素子を思い出した。
同じ規格品で構成されたシステムは、どこかに致命的な欠陥を持つことになり、組織も人も、特殊化の果てにあるのは緩やかな死である、という台詞がある。人間の身体が統一された変化のない情報になった時、社会や人間は止まり、風化していくという事だろうか。

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